こくはく



 シロとケッコンしたいと思った。

 手の届かないほどまぶしい月が、クロの体を舐めるように照らす夜。
 シロにケッコンを申し込もうと、シロの家まで向かう道。なんだかそわそわする気持ちが背中を撫でていくけれど、クロはなんとかそれを受け入れて、しなやかな足を風にのせる。ケッコンしたい。シロとケッコンしたい。シロと一緒にいられたら、それだけでいい。
 だからクロは、シロの家の前で大きく叫びだしそうになるのをおさえて、つとめて遠慮がちに、シロの名前を呼んだ。

「シロ、そこにいるんでしょう」
「クロ、どうしたの。こんな夜に」
「話があるの。中に入ってもいいかな」
「いいよ、おはいり」

 クロはほっと息をついてなかに入った。
 闇のなかの真白い家は、外の壁より中のほうがもっと白い。大きな窓から差し込む月の光が当たる場所だけ、くっきりと切り取られたように怪しく光っている。そのほかは闇だ。ほの暗い闇が静かにあるだけだ。
 クロはシロを見た。暗がりのなかで細い体がすらりとたたずんでいる。「こんばんは、クロ」夜の風のようなかすかな声が直接、クロまで届く。シロがやさしくほほえんでくれたような気がしたけれど、クロにはわからなかった。

「こんばんは、シロ」
「こんばんは、クロ」
「きれいな夜だね、だから電気をつけないの」
「ええ、それに起きている時間ではないから」
「そうだね」
「怒られちゃうもの。だから電気はつけないの」
「そうだね、それがいい」
「クロ、どうしたの。こんな夜に」
「シロ、大事な話があるんだ」
「なあに、クロ。そんなにかしこまって、どうしたの」
「あのね、シロ  」

 クロは言葉にならない気持ちを、どう伝えたらよいのかわからなかった。こんな気持ちははじめてだったから。言いたいことはたったのひとつなのに、いきなりそれを言うのは戸惑われる気がした。シロにも予感してもらわなくちゃならない。少しずつこの緊張が伝わってシロにも、どきどきしてもらわなくちゃならない。何よりゆっくり、たくさんの話をしなくちゃならない。

「ねえシロ、出会ったころのこと、覚えてるかい」
「ええクロ、つい最近のように思い出せるわ」
「そうだね、同じだ」
「あなたはずいぶんおとなしかった」
「君だってとってもしずかだった」

 そして、きれいだった

「こうしてお話ができるなんて、思ってなかった」
「そうね、クロはもっとこわいと思っていた」
「どうして」
「だって、にらまれているみたいだったから」
「もとから、こんな目なんだ」
「そうね、今はそう思う」

 サワサワと、風のようにシロが笑う。ひかえめな笑い方が好きだった。どんな顔をしているんだろうとクロが顔をあげたとき、月の光がちょうど、運命のようにシロにそそがれた。
 シロは全然外に出ないので、まるでミルク皿のように白かった。
 月のひかりは奇麗だけれど、シロにはもう少しやさしい色が似合うな、とクロは思った。

「なんだかやせたね、シロ」
「そうなの、食事もあまりできないわ」
「大丈夫なの」
「ええ、クロと話ができるくらいには」
「そう、それなら、いいんだ」

 それからクロは、シロに会わない間におこったことを話して聞かせた。
 きれいにととのった草のある公園であそんだこと。弟ができたこと。シロに会いたいと思ったこと。シロがびょういんを出る日が来たら、公園へ行って、弟に会わせたいと思ったこと。シロはクロの話を黙って聞いていた。あまりに静かだったので、一呼吸おいて、名前を呼んでみた。「シロ」

「ねえクロ」
「なあに、シロ」
「だいじな話って、なあに」
「シロ、シロ」
「なあに、クロ」
「君とけっこんしたいんだ」
「クロ」

 風がやんだ。シロも今は笑っていない。クロはあせってしまった。嫌だと言われたら、すぐに窓から逃げ出さなくちゃと思った。胸がどきどきして、呼吸がとてもはやくなる。シロはどうかな。シロの呼吸は聞こえない。シロはしばらく動かなかったけれど、風が再開するのと同じくらいに、ゆっくりと細い体を揺らした。

「けっこんって、クロったら、意味しってるの」
「ずっと、一緒にいるってことさ」
「クロと」
「そう、シロと」
「それはできないわ、クロ、けっこんなんて」
「どうして」
「だって、つい最近出会ったばかりなのに」
「ずっと昔のようだよ」

 シロと出会ってから、どれだけの日が経ったのか伝えようと思った。
 クロは、シロと会ってから、夕日が落ちる回数をかぞえていたけれど、2回を過ぎたら忘れてしまった。2回も夕日が落ちたんだよ、シロ。

「君と出会って、3回よりもっとたくさん、朝が来たんだよ、シロ」

「だって、もうすぐ死んじゃう」

「シロが」
「そう、もうそこまできてる」
「大丈夫って言ったじゃない」
「ええ、クロ。あなたと話ができるくらいは」
「それってどれくらい」
「今夜」
「いやだよシロ、そんなの」

 雲が月を隠してしまって、シロは人形のように動かない。嫌われてしまうのがこわくて、クロはのどを鳴らした。口がかわく、めまいがする。足が地面についているのを確かめて、なんとか息を吐いた。

「大丈夫って言ったじゃない」
「ええ、クロ。こうしてあなたがいてくれて良かった」
「シロ、けっこんしようよ」
「むりよ、ずっと一緒には、いられない」
「ずっと一緒にいてよ」
「クロ」
「シロのこと、だいじにする」
「むりよ、クロ」
「どうしてそんなこというの」
「あなたはどうやったって私を知ることなんか、できないのよ」

 クロはキョウカイで、ケッコン式をする人たちのことを思い出した。いいわね、これからずっと、ふたり、しあわせね。魚屋の奥さんが言っていた。やさしい風が吹く日だった。シロに似合う日だとクロは思った。だからシロと結婚しようと思った。ずっと、ふたり、しあわせね。

「シロ、好きって言って」
「どうして」
「それがけっこんのちかいなんだって」
「それだけじゃだめよ」
「そうなの」
「けっこんはちかいのキスをするの」
「キス」
「そうよ、クロ」

 クロははじめてみた、あのケッコン式を思い出した。
 神父が枯れた声で言っていた。ちかいのきすを

「シロ、キスしてもいいかい」
「けっこんは、できないわ」
「シロ、キスしてもいいかい」
「ええ、クロ」
「ありがとう、シロ」

 シロには、三歩あるけばくっついた。そのままそっとキスをする。クロは思ったよりも自分が落ち着いていると感じた。このままさらってもいいかな。シロを連れて、窓から逃げ出してしまおうか。クロは、唇をはなしたらまず何を言おうか、れいせいなあたまで考えていた。いちばんいいことばがうかぶまで、このままキスしていようと思ったら、つよい風が吹いてシロがうしろに下ったので、しぶしぶくちびるをはなした。

「好きだよ、シロ」
「ありがとう、クロ」

 シロが笑ってくれたような気がしたので、クロはうれしくなった。もういちどキスをしようと足を前に出したそのとき、今夜いちばんつよい風が吹いたので、クロはあわてて目を閉じた。悲鳴のような風がやんで、クロが目をあけると、シロがいなくなっていた。

「シロ」

 窓から逃げ出したのはシロのほうだった。クロがそっと窓の下を見ると、折れたようにたおれているシロを見つけた。クロはいそいでおりる。あっというまのできごとだったのに、シロはいっそう細くなってしまったようだった。

「シロ」
「クロ」
「好きだよ、シロ」

 シロが笑っているのか泣いているのか、クロにはさっぱりわからなかった。シロが何か言っているような気がしたけど、それは風の音だった。クロはシロを抱き上げた。

「シロ、きれいな草のある公園に行こう」
「弟にはあした会わせるよ」
「クロ」
「シロ」
「クロ、あなたの舌、とてもいたい」
「シロ、おんなじだ。なんだかおなかがいたいんだ」
「クロ」

「好きだよ、シロ」

「一緒にいよう」

「ずっと」

 月が近い。今なら届きそうな月が笑っている。ちょうど、シロも同じようにして空を見上げたのでうれしくなった。のどの奥からなにかがこみあげてきたけど、クロはがまんした。死なないでシロ。けっこんしよう。ずっと、しあわせだよ。クロとシロが、ゆっくり闇に溶けていくなかで、シロだけが浮かび上がって、やがて消えた。
 

 次の日、息を切らした少年が、朝霧で包まれた公園のかたすみで枯れた花をくわえたまま死んでいる猫を見つけて泣いた。

 

 

End.